『チャイルド44 森に消えた子供たち』は黒澤明『野良犬』である。
観たいと思いつつ逃してしまっていた『チャイルド44 森に消えた子供たち』が先日新文芸坐にて上映されていたので、行ってきました。
(併映は『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』)
トム・ハーディ主演の二本立、という実にシブいチョイスだったんですが、日曜開催ということもあってか朝イチからほぼ席が埋まりなかなかの盛況。意外と女性客が目立ってたのは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でのハーディ=マックス効果だったんでしょうかね。
と言いつつ、今回は別にトム・ハーディ礼賛を語るわけでなく、二本立のうちの1本『チャイルド44』についてちょっと書きたいことを見つけたので、それを記事にしようという主旨。
もともと原作小説が『このミステリーがすごい!』に選出されたということで、
なかなかに評判は高かったようなんだけれども、
個人的には「それほどベストな作品とは思えなかった」というのが正直なところ。
なんでかっていうと、物語の主軸が犯人探しにあるのか、ソ連の警察機構の隠蔽体質を暴きたいのか、どっちなのか曖昧で興味の矛先をどこに向ければいいのかあやふやになってしまったから。
観ているこっち側としては、連続殺人鬼を追うほうに比重を置いてくれたほうがスキっとするのに、実際そっちも視点の脇だし、かといって語り部のトム・ハーディにそれほどフォーカスされているようにも思えない。
上のチラシの各界コメントにもそれはなんか滲み出ている気がする。
(ぜったい夫婦のキズナなんて話の中心ぢゃないと思うゾ。)
それに加えて、この映画のテンポがどうにも生理的に合わなかった。
映画って、尺が2時間近くある(この作品は2時間17分)わけだから、そこには『ガラスの仮面』の月影先生じゃないけど「緊張と緩和」、メリハリというか、リズムに緩急が欲しいんです。あるところでは緊張が高くなって、その合間には静寂が来る、ような。
それが、この作品では冒頭から終盤まで、ほぼある程度のビミョーに高めのテンションのまま流れていく。
これ、何か既視感があるなァと考えていたら、トニー・スコットの作風に似てる? と気付いたんですが。
ご存知のようにトニー・スコットはリドリー・スコットの弟の映画監督。彼の『アンストッパブル』とか『デジャヴ』なんかはホントにそんな感じで、ずっと同じテンションのままドラマを引っ張っていきます。
予告だといまいち判りづらいかも。
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思えばこの『チャイルド44』はトニーの兄リドリー・スコットの映画会社「SCOTT/FREE」の製作。
ひょっとしたら、トニー亡き後のトニー組のスタッフがそのままこの映画のスタッフに横すべりで入ってるのかもしれない、と思ったんだけど。
映画のリズムを決めるのは編集だと思うんで、その編集者が同一なら、この自分が感じた既視感も納得いくハズ。
ということでスタッフ表を当たってみたんだけど、ざっと見たところそんなことはなさそう。
となると、製作プロダクションのカラーと云うしかないのかなぁ。
でも兄リドリーの作品に関しては、特にそんなことは思ったことはないし。
なんなんでしょ。
本作の監督ダニエル・エスピノーサのフィルモグラフィを見ても、残念ながら(そもそもこの監督の作品を観たのはこれが初めてだ)共通項は見いだせない。
単なる”偶然の一致”という結論になりそう。
さて、脱線してしまったけれど、今回の本題はそこではないのである。
【ここからはネタバレあり】
…って大仰に言っても、別にこの作品は「ソ連時代の、”ロストフの連続殺人鬼”チカチーロを題材にしてる」実話に基づくフィクションだし、そうなると現実のチカチーロ事件を知識として知ってれば、だいたいのことは想像がつくわけなんだが。まァ断っておくに越したことはない。
ということで、話はいきなり終盤に飛ぶ。
主人公トム・ハーディがようやく犯人に追い付き、二人が森で対峙したとき、犯人が「私たちは同じだ」という言葉をハーディに呟く。
トムも犯人も、第二次大戦で戦災孤児となり、孤児院で育てられていた。犯人はこの「同じ境遇」のことを述べているのだが、ここで観ながら「ん?」と或る昔の映画を連想した。
犯人と、それを追う者が類似の過去の境遇を抱えている。
これって、黒澤明の『野良犬』じゃね??
『野良犬』で、拳銃(コルト)を掏られた刑事・三船敏郎が、拳銃とそれを使って犯罪を起こした犯人を探し追い詰めていくサスペンス。
捜索するうち、犯人が三船と同じように復員兵として内地に引き揚げてきたものの、三船と同じように引き揚げ直後にリュックを盗まれたことが明らかになっていき、「自分とあの犯人は同じだ。いったいどこが違うというのか」と自問し苦悩していく。復員兵。同じリュックを盗まれたという共通の境遇。「一歩道を踏み外せば、自分も犯罪者になっていたのかもしれない」と。
こうした、追う者と追われる者・優位に立つ者と劣勢の側にいる者など、対峙する者同士の合わせ鏡のような対比・コントラストは、黒澤作品では頻繁に主題として立ち現われてくるんだけれど、
(『天国と地獄』『七人の侍』『乱』などなど)
それはまた改めての機会として、話を『チャイルド44』に戻すと、この作品での”追う者”ハーディと”追われる者”犯人は、まさにこの「合わせ鏡」のような関係がここで提示される。
果たして脚本家と監督がどこまで意識していたのかは判らないれど、これは黒澤明監督の『野良犬』を模倣しているのだと思う。
それが疑いから確信になるのは、映画が進み次の段になってから。
るかるみの泥の中で2人の男が取っ組み合いの格闘をするのだ。
『野良犬』では、クライマックスで追い詰めた犯人と三船敏郎の刑事が森の中のぬかるみで格闘するというシークエンスがある。
だって、それを踏まえてなけりゃ、ここでわざわざ「泥のぬかるみ」なんて舞台は設定しないでしょ?
格闘する人間達の立場こそ違うものの、おそらく作り手の頭の中には『野良犬』のビジュアルイメージと、犯人と追跡者との関係性が重ねられていたのだろうと思う。
脱線するが、それにしてもクロサワ映画における三船は、こんなふうにどろどろぐしゃぐしゃの中足掻くみたいなシチュエーションが多いように感じるなあ。この『野良犬』然り、『七人の侍』では土砂降りの中刺し違えるし、『酔いどれ天使』では白いペンキの中這いつくばりながら確執のあった兄貴分を追い詰める。
(黒澤映画における三船敏郎についてはいずれここでも記事にしたいと思う)
“映画は映画を模倣する”という自説を持っているけれど、例えばハリウッド作品なんかではたいがい本編中に過去の映画への言及やモチーフが引用されてることがかなりあって、おそらくこれは慣習的に「ハリウッドのアンリトゥン・ルール(unwritten rule)」になってるんじゃないかな。
いまふと思いつく例を挙げても、トム・クルーズが主演した『バニラ・スカイ』におけるトリュフォーの『突然炎のごとく』の引用とか、有名なところでは『マトリックス』での押井アニメ『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』へのオマージュとか、枚挙に暇がない。
(そういうのを見つけ指摘するのがうまいのが町山智浩氏だったりする)
気になったら観比べてみそ。『突然炎のごとく』と『バニラ・スカイ』。
それにしても『バニラ・スカイ』のパッケージはダサいな…
自分としては中庸程度の映画だった『チャイルド44』だけれど、なんだか別の愉しみ方ができてそっちで満足できてしまった作品でした。
※余談だが、自分は『野良犬』の「その日は、怖ろしく暑かった」というナレーションとともに始まる冒頭部がチョー好きなんだな。